宮城道雄

(1894〜1956 兵庫県)

宮城道雄は,明治27(1894)年,兵庫県ひょうごけんに生まれました。おさないころにかかった目の病気がもとでだんだんと視力しりょくを失い,8さいのころには完全に失明してしまいました。まもなく宮城は,こと(そうを習うために神戸こうべ箏曲家そうきょくかのもとに入門します。そこで箏を学び始めた宮城は,11歳になると早くも免許皆伝めんきょかいでんとなり,師匠ししょうの代わりに稽古けいこもできるようになりました。「免許皆伝」というのは,学芸や武芸などでとても重要な事柄ことがらをすべて習得したことを意味しています。また,宮城は箏だけではなく三味線しゃみせん修業しゅぎょうもしています。

ところが13歳のとき,朝鮮ちょうせん半島で働いていた父親が重傷じゅうしょうを負ってしまいます。宮城は家計を助けるため父親のところに行かなくてはならず,師匠の下をはなれることになりました。しかし,そこで弟子でしをとって教えながらも,みずから演奏家として活動し,だんだんと名を広めていったそうです。

そして満14歳(数え年で15歳)で,初めての作品になる「水の変態」という曲をつくり,作曲家としての道も歩み始めます。「水の変態」は,雲や雨,雪など水のいろいろな姿すがたをうたった短歌に曲をつけたものです。朝鮮半島で生活する宮城には,日本で習った曲だけを演奏することに満足できず,また新たに師匠とする人も身近にいなかったため,自分で作曲しようとしたといわれます。
また,このころに生涯しょうがいにわたっての友となった尺八しゃくはちの演奏家 吉田晴風よしだせいふうと出会っています。

その後,いろいろと努力し続けた宮城は,18歳のとき検校けんぎょうになりました。「検校」とは,江戸時代まであった「当道とうどう」という制度の中で最高の地位を表す言葉で,明治めいじに入って,その制度がなくなったあともそれまでの慣習にしたがって,同じような意味で用いられていました。

そして22歳になると,「大検校」となり,さらに名声を広めることになりました。その翌年よくねん,宮城は東京に向かっています。
東京で出会った人の中に,葛原くずはらしげるがいます。みんなも知っている歌「とんび」の作詞者さくししゃとしても知られています。宮城は葛原のつくった詩をとても気に入り,葛原とともに子ども向けの曲をいくつかつくっています。宮城はこうした子ども向けの曲(「童曲どうきょく」とばれる)をつくるのが好きだったらしく,100曲以上も作曲したといいます。
箏だけではなく,いろいろなジャンルのものを作曲しながら,大正8(1919)年,25歳になった宮城はついに自分のつくった曲を集めて,第一回作品発表会を開いています。

教科書に鑑賞かんしょう曲としてっている「春の海」は昭和4(1929)年,35歳のときに作曲されたものです。今でも耳にすることが多いこの曲は,昭和7(1932)年に来日したフランスのバイオリニスト,シュメーが尺八の代わりにバイオリンを使う編曲をして,自分の演奏会においてその曲を宮城と合奏したため,世界的にも有名になりました。

宮城はその後も,演奏活動だけでなく,十七弦や八十弦などの新楽器を考案するなど楽器に工夫をほどこしたり,自分の弟子にだけではなく,音楽学校での指導に当たったりと,さまざまな活躍かつやくをしました。

昭和31(1956)年,演奏旅行のため移動中の夜行列車からあやまって転落し,多くの人にしまれながら,62歳の生涯を閉じました。

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