長野県: |
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大鹿歌舞伎は, この地に住む人たちによって長く受けつがれてきたので,歌舞伎やほかの地域の地芝居とは 今でも村を *地芝居:農村などで,その土地の人たちが演じる |
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御諏訪太鼓 |
御諏訪太鼓は,長野県諏訪地方にある諏訪大社の神楽や舞楽として伝わっていたものがもとになっているといわれています。16世紀中ごろには,武田信玄が上杉謙信との川中島の合戦において,武士たちの士気を鼓舞するために使った歴史もあるなど,いろいろな要素が吸収されてきたといわれます。 武田氏がほろんだ後は,しだいに忘れられていきましたが,昭和20年代後半,小口大八さんによって複式複打法というスタイルが確立され,新たに御諏訪太鼓としてよみがえりました。その後も,保存会が結成されたり,愛好家の積極的な活動や支援もあったりと,今も新たな広がりをみせています。 使われる太鼓は,種類や大きさもさまざまで,その多彩な音色の太鼓を組み合わせて大きな編成で演奏するこの複式複打法というスタイルは,御諏訪太鼓の大きな特徴といえるでしょう。 |
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木曽節 |
木曽節は,長野県南西部にある木曽谷の村々で古くから踊られていた木曽踊りの盆踊り唄として歌われていました。木曽踊りには,数十種の民謡や踊りがあり,木曽節はその代表的なものでした。 木曽御岳山のふもとに広がる広大な森林地帯は,木曽ヒノキに代表される良質な木材の産地で,室町時代後期から近世にかけて,とてもたくさんの材木が切り出されたそうです。そこで働くために,三重県の伊勢をはじめ,各地から木を切る人や川を利用して材木を運ぶ人たちが集まりました。こうした人たちにも木曽節は歌われ,即興的に歌われたものは,あるものは消え,あるものは残るなどしながら広まっていったようです。 大正時代には,福島町長であった伊東 淳が,木曽踊りに参加した人に「許し免許」という免許状を発行したり,木曽踊り保存会をつくったりして,木曽節や木曽踊りの普及に努めました。そのときに,地域ごとに少しずつちがっていた木曽節も,「正調木曽節」として共通の節回しで歌えるものができました。 こうした活動が実り,昭和になって木曽節のレコードが発売されたり,NHKのラジオで木曽踊りの様子が放送されたりしたため,全国的にも知られるようになりました。 木曽節は,「木曽のなー なかのりさん 木曽のおんたけナンチャラホイ」と音頭取りがここまでを一息で歌い,続けて「夏でも寒いヨイヨイヨイ」と後半を全員で合唱します。踊り手が増えて盆踊りの輪がだんだん大きくなると,よく通るすんだ声でないと踊りがそろわなくなります。そのため,自然に声のよい人が次の音頭取りとなって歌いつがれてきました。今では,放送設備が整ってきたため,拡声器を通して鳴り物入りで歌われることが多くなりましたが,昔は盆踊りの歌声と手拍子が木曽川のせせらぎとともに夜おそくまで聞こえていたものです。 現在,木曽踊りは一般の観客も参加できる運動会の種目としても親しまれています。このことは,地元の木曽踊り保存会の指導を受けて練習した成果を子どもたちが発表するよい機会になると同時に,木曽節が生活と密着したものとして受けつがれていくことにも,つながっています。 |
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小諸馬子歌 |
「小諸馬子歌」は,もともとは北国街道の宿場町として栄えた小諸と,中山道にある碓氷峠を越えて,群馬県安中市松井田町にある坂本宿を行き来するときに,馬子たちが歌っていた馬子歌だといわれています。馬子とは,人や荷物を乗せた馬を引く仕事をする人たちのことです。碓氷峠は,江戸(現在の東京)と関西方面をつなぐ中山道の中でも険しい道のりで知られたところです。江戸時代に入ると交通の要所として人の行き来が活発になり,それとともにこの馬子歌もいろいろな宿場町で歌われるようになりました。 その後,明治後期から昭和にかけて尺八の演奏や民謡の研究で活躍した後藤桃水は,弟子の菊池淡水にこの馬子歌を伝えました。そして,菊池淡水を通じてこの歌を知った歌手の赤坂小梅は,昭和12年に歌謡曲「浅間の煙」(西條八十 作詞,古関裕而 作曲)という曲をレコードで発表します。この曲には「小諸馬子歌」が挿入されていて,彼女は後に,馬子歌の部分だけを抜き出して歌うようになりました。それが現在伝わっている「小諸馬子歌」です。古くから伝わるものとは少し異なりますが,馬子の気持ちや情景を表現した歌詞と,美しい旋律がたいへん印象的です。 |
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