富山県とやまけん |おわら風のぼんこきりこ御車山囃子みくるまやまばやし

 


おわら風のぼん
 おわら風の盆は,富山市とやまし八尾町やつおまちで,毎年9月1~3日に行われる行事です。  立春りっしゅんから210日の9月初旬しょじゅんの休み日を,この地域ちいきでは盆日ぼんじつんだことから,この行事を「風の盆」と言うようになり,おどり歌の「越中えっちゅうおわらぶし」の名前を取って「おわら風の盆」として知られるようになりました。

「おわら」という名の由来は,
  • 歌詞かしに「おわらい」という言葉を入れて町内をり歩いたのがいつしか「おわら」となった
  • 豊作ほうさく祈願きがんした「大藁おおわら」から「おわら」に転じて呼ぶようになった
  • 八尾町近くの「小原おはら村」というところから始まったから
など,いくつかの説があります。
踊りには,「豊年ほうねん踊り(旧年きゅうねん踊り)」「男踊り」「女踊り」の3種類しゅるいがあり,音楽を受け持つ「うたい手」「囃子はやし」「三味線しゃみせん」「太鼓たいこ」「胡弓こきゅう」によってかなでられます。
 また,歌詞の最後さいごの1の前にかならず“おわら”と入る囃子詞はやしことば特徴とくちょうです。
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こきりこ
 「こきりこ」は,越中えっちゅう五箇山ごかやま上梨かみなしの山里を中心に伝承でんしょうされた民謡みんようです。上梨の古い神社である白山宮はくさんぐうに伝えられてきたのですが,五箇山が開発されるにつれてだんだんと歌われなくなりました。昭和の初めごろに,詩人の西条八十さいじょう やそが古い文献ぶんけんに書いてあるという「こきりこ」をたずねて,わざわざ五箇山まで来ました。このことをきっかけに,五箇山に残る老人から聞き取り調査ちょうさをしてみると,山崎しいというおばあさんが小さいころに村のおじいさんから「コッケラコ」という歌を教えてもらったということが分かったのです。このおばあさんの覚えていた歌を楽譜がくふにして発表し,現在げんざいの「こきりこ」がよみがえったのです。

 「こきりこ」は田楽でんがくとして歌いつがれてきました。田楽とは,田植えにあたり豊作ほうさくをいのる田遊びから発達した都市の芸能げいのうで,平安時代から南北朝の時代にかけて大流行したそうです。長い間独自どくじの文化をはぐくんできた五箇山にそのような都の文化が残っているのは,外部のだれかが伝えたのだろうと考えることができます。
この「こきりこ」は,昭和28年に全国郷土芸能きょうどげいのう大会に出場したり,その後,中学校の音楽教科書に掲載けいさいされたりしたので,全国的に広く知られるようになりました。
現在,「こきりこ」は,筑子こきりこ,びんざさら,ぼうざさら(りざさら),鍬金くわがね,笛,つつみ太鼓たいこといった日本古来の楽器を使って演奏えんそうしています。古い絵の中にあるものや歌の中に出てくる楽器を使っているのです。踊りについては,古い絵や昔の踊りを覚えていたおじいさんたちから教えてもらったものを再現さいげんしています。「奉納ほうのうこきりこ踊り(しで竹踊り)」や「放下僧ほうかそうのささら踊り」「こきりこ手踊り」などで構成こうせいされています。
服装ふくそう鎌倉時代かまくらじだいのものを再現するなど,越中五箇山筑子唄保存会こきりこうたほぞんかいを中心に後世に残していく努力をしています。江戸時代えどじだいまで続いていたと古い本に書いてある「こきりこ祭り」も復活ふっかつし,毎年9月に開催かいさいされるようになりました。同じ五箇山の合掌集落がっしょうしゅうらく世界遺産せかいいさんの指定を受けたこともあって,おとずれる人はたいへん多くなっています。

地元で「こきりこ唄」ともいわれている「こきりこ」は,保存会のある上梨地区だけでなく平村たいらむら全体で受けつごうとしています。小学校,中学校,高等学校すべてに保存会のメンバーが指導しどうに出向き,子どものころから「こきりこ」を歌ったり踊ったりしていますので,村民全員が踊ることができることも特徴とくちょうとして挙げられるでしょう。

「こきりこ」の由来について

 「こきりこ」のはじまりは主なもので2つの説があります。
一つは平家へいけ落人説おちうどせつです。五箇山には,源平げんぺいの合戦で敗れた平家の落武者おちむしゃが五箇山までにげてきて住むようになったという言い伝えがあります。その彼らが「こきりこ」を伝えたというのです。1183年に富山県と石川県の県境けんざかいにある倶利伽藍峠くりからとうげの戦いに敗れた平家軍が五箇山に住み着いたとも考えられますし,「波の屋島やしまをのがれ来て」という歌詞かしが「こきりこ」や同じ五箇山の「麦屋節むぎやぶし」にあることから屋島で敗れた平家武士が五箇山まで,のがれてきたとも考えられます。五箇山には平家の落人伝説がいくつもあります。

もう一つは南朝なんちょう落人説です。南北朝の内乱ないらんの時代に,南朝方は全国に皇子おうじを送って失地回復かいふくの機会を待っていたそうです。敗れた南朝方の家臣の一人が五箇山にとどまり,南朝の再興さいこうを図って山城やまじろきずき,南北朝統一とういつ後に土豪どごうになったと伝えられています。その子孫が白山宮再建の時に「こきりこ」を奉納ほうのうしたという説です。「こきりこ」は上梨白山宮の祭礼に歌い踊られてきたので,この説のほうが本当ではないかという人も少なくありません。

 

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御車山囃子みくるまやまばやし
 御車山囃子は,毎年5月1日に開かれる,高岡市たかおかし高岡關野たかおかせきの神社の春祭りである「高岡御車山祭たかおかみくるまやままつり」で演奏えんそうされるお囃子はやしです。
 1588年に豊臣秀吉とよとみひでよしが,自身のしろである聚楽第じゅらくだいに,後陽成天皇ごようぜいてんのうをむかえ入れるときに使用した御所車ごしょぐるまを,加賀藩初代藩主かがはんしょだいはんしゅ前田利家まえだとしいえが秀吉からちょうだいし,二代藩主の前田利長まえだとしながが1609年に高岡城たかおかじょうきずくにあたり,町民にあたえられたのが,高岡御車山の始まりとつたえられています。
 そして,当時の地元のすぐれた工芸技術こうげいぎじゅつによって,御所車にうつくしいかざりや彫刻ちょうこく,神が宿るとされる人形などがほどこされ,ごうかではなやかな御車山となりました。今も,祭り当日には7の御車山が市街しがいをめぐり,ひきそろえられます。
 御車山の下部は,7基それぞれにことなる模様もよう刺繍ししゅうされた,まんまくにおおわれており,その幕の中でお囃子が演奏されます。
 演奏者は「楽人がくにん」とばれ,特定とくていの集落で代々引きつがれています。
 楽器は,笛,大太鼓おおだいこ小太鼓こだいこを使用し,御車山によって演奏する曲がちがいますが,曲目は,「越天楽えてんらく」「青海波せいがいは」「慶雲楽きょううんらく」「還城楽げんじょうらく」など,雅楽ががくからとられています。
 昭和しょうわ29(1954)年には高岡御車山保存会ほぞんかい創立そうりつされ,今日こんにちまで,高岡市の発展はってんとともに人々に長く大切に受けつがれています。
 こうした高岡御車山祭の御車山行事は,国の重要有形民俗文化財じゅうようゆうけいみんぞくぶんかざい無形民俗文化財むけいみんぞくぶんかざいの両方に指定され,平成へいせい28(2016)年には,「山・ほこ・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産むけいぶんかいさん代表一覧表だいひょういちらんひょう記載きさいされました。

 

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