滋賀県しがけん | 大津祭囃子おおつまつりばやし| 江州音頭ごうしゅうおんど|(すず)鹿()馬子(まご)(うた)

 


大津祭囃子おおつまつりばやし

 大津祭おおつまつりは,琵琶湖びわこの南西岸にある大津市で行われる祭りです。江戸時代えどじだいの始めに天孫神社てんそんじんじゃの古木に住んでいたたぬきが死んでしまい,その古木をなぐさめるためにおどったのが始まりといわれています。
現在げんざい,10月上旬じょうじゅんに行われるこの祭りでは,13曳山ひきやまが町を練り歩きます。祇園祭ぎおんまつりの曳山をまねてつくったという大津祭の曳山は,三輪で,二重構造こうぞうになっています。それぞれの曳山には,「からくり人形」がのせられていて,本祭りの巡行じゅんこう中,およそ20ヶ所でからくりがえんじられます。これは「所望しょうもん」とばれ,曳山ごとにいろいろなテーマで演じられます。

大津祭のお囃子は10種類ほどあり,曳山によって名前がちがいます。どの曳山にも共通するお囃子としては,「宵山よいやま」や「もどり山」があります。「所望」のお囃子もそれぞれの曳山にありますが,曲はそれぞれことなっています。
お囃子は,かね太鼓たいこ,笛で構成こうせいされていて,曳山に乗った囃子方はやしかたといわれる人たちによって,演奏えんそうされます。
お囃子用の楽譜がくふはなく,笛や太鼓はきいて覚えるのですが,鉦には音を直接書き取った覚え書きがありますので,一部を紹介しょうかいします。

【鉦の覚え書きの例】

「よいやま」
かんかんかんかん
かんちきちっち
かんかんちきち
かんちきちっちん
かんちきちきちきちん
ちきちっち

たたき方には,「かん」「ちん」「ち」「ちき」があります。「かん」は,鉦の真ん中をたたきます。「ちん」は,左側から左下にかけてのあたりをたたいて,止めずにはらいます。「ち」は左側をたたき,はらわずにもどります。「ちき」は,左下,右上の順に連続してたたきます。
地域ちいきの人たちは,子どものころから祭りの前になると公民館などに集まってお囃子の練習を行います。町のあちこちから鉦や笛の音が聞こえ,祭りのムードをり上げます。

県内には,ほかにもお囃子があります。水口みなくち囃子と日野ひの囃子は,江戸の「神田かんだ囃子」の流れをくむもので,大津祭など祇園祭けいのお囃子の多い西日本ではたいへんめずしいものです。
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江州音頭ごうしゅうおんど

 「江州音頭」のみなもとをたどると,奈良時代ならじだい平安時代へいあんじだいにさかのぼります。「声明しょうみょう」とばれる仏教ぶっきょうのおきょうのふしが元になっていると考えられています。
江戸時代の終わりごろ,八日市ようかいちの西沢寅吉は,当時流行していたおどりなどを取り入れて村々で音頭を歌い,人気者になりました。明治時代の始めに,豊郷とよさと千樹寺せんじゅじ観音堂かんのんどう再建さいけんされたときには,西沢の音頭にのって,村人たちが踊り明かしたといわれています。
やがて,この音頭は豊郷・八日市を中心に近江路おうみじ一帯に広がり,「江州音頭」として定着しました。
歌詞かしの中には,お米などの穀物こくもつゆたかに実ることを神仏にいのりをこめて願う部分,そして,人々の心の内にある喜怒哀楽きどあいらく表現ひょうげんする部分があります。大地に生活し,実りを願い,そして一人一人の心のうったえを語り合う庶民しょみんの歴史がこの中にはあります。

現在げんざい,江州音頭は夏の盆踊ぼんおどりに県内各地で歌い踊られています。
踊り場の中央にやぐらを組み,音頭取りがその上で金杖きんじょうをならし,あるいは法螺貝ほらがいいたりします。ときどき口で「アー,れれれん,れれれん,れれれん」といい,太鼓たいこ三味線しゃみせんなどを伴奏ばんそうに歌います。この「れれれん」は法螺貝の擬音ぎおんです。地域ちいきの人たちは,この歌に合わせて櫓の周りを踊ります。
今も,多くの人たちによって歌い踊られ,地域の人たちの大切な交流の場にもなっているのです。
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(すず)鹿()馬子(まご)(うた)

 三重(みえ)(けん)滋賀(しが)(けん)(さかい)にある鈴鹿(とうげ)をこえる道は,平安時代には「阿須波(あすは)(みち)」と()ばれ,古くから(じゅう)(よう)な道でした。江戸(えど)時代には,東海道(とうかいどう)として(せい)()され,参勤交代(さんきんこうたい)を行う大名やお伊勢(いせ)(まい)りや(こん)毘羅(ぴら)参りの旅人などが通る道として使われたそうです。
三重県側の坂下(さかした)宿(じゅく)から鈴鹿峠に向かう道は「八町二十七(まが)り」と呼ばれた急な曲がり道が続く山道でもあり,江戸時代には(はこ)()峠に次ぐ東海道の難所(なんしょ)として知られていました。
「鈴鹿馬子歌」は,この厳しい鈴鹿峠を行き来し,馬に荷物や人を乗せて運んでいた馬子とよばれる人たちが歌ったものがもとになったといわれています。追分節(おいわけぶし)といわれる(はく)のない自由なリズムで歌わるものでした。
鉄道の(たん)(じょう)などにより馬子が姿(すがた)を消すとともに,この歌も歌われなくなっていきますが,昭和30年代に,多田夏代さんという民謡(みんよう)の歌い手が,鈴鹿峠のお茶屋さんの女将(おかみ)(おぼ)えていた歌を受けついで,今の「鈴鹿馬子歌」の形に整えました。

歌詞(かし)の一部を(しょう)(かい)します。
 〽坂は()る照る
  鈴鹿は(くも)
  あいの土山(つちやま) 雨が()

歌詞にある「坂」は鈴鹿峠の三重県側にあった坂下宿,「土山」は滋賀県側にあった土山宿のことです。坂下宿では太陽が照っているのに,鈴鹿峠では曇ってきて,峠を越えたあとの土山宿では雨が降っている,というように,鈴鹿峠を境にして天気が変わりやすかった様子がうたわれています。

土山宿がある滋賀県(こう)()市では,今も毎年6月に「鈴鹿馬子(うた)全国大会」が開かれています。

※坂下宿や土山宿の「宿」は,「しゅく」と読んだり言ったりすることがあります。
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