群馬県: |
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群馬県の 「湯もみ唄」は,50度ほどの高温の湯の温度を下げるために板で湯をかき回す「湯もみ」のときに歌われます。 草津節は,曲調が明るく,“ドッコイショ“や,“チョイナチョイナ“といった もともとは,さまざまな歌が歌われていましたが,大正時代に 草津節の原曲は,埼玉県の「 一方, 草津小唄は昭和3(1928)年に 古くから湯もみ唄として親しまれてきたこれらの民謡は,今でも |
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八木節 |
「八木節」の名は,日光例幣使街道の宿場町である八木宿(現在の栃木県足利市)から由来します。日光例幣使とは,江戸幕府を開いた徳川家康を祭った日光東照宮に,朝廷から供え物を送るために派遣された一行のことです。この例幣使一行は,木曾街道から碓氷峠を下って高崎市倉賀野で中山道と別れ,玉村から太田,足利(八木宿),金崎を通って日光東照宮へ向かいました。この道のりの玉村から金崎までの92kmを日光例幣使街道といいます。街道沿いには旅人のための宿場町が栄え,日光例幣使街道には13の宿場町が存在しました。 八木節はその源流を上州地方一帯の盆歌(盆踊り歌のこと)に見ることができます。明治時代に入ると八木宿の近くで運送業を営んでいた清三が,馬のひずめのリズムを伴奏に盆歌を歌ったものが評判となりました。清三は馬を引き,各宿場町を行ったり来たりしながら,その土地土地の民謡などもうまく取り入れて馬方節を作り上げました。清三の美声と歯切れのよいリズムとテンポは宿場町の人たちの間でたいへん人気があったということです。 そして,評判を聞きつけた者の中には清三に教えを習う者も多く,しだいに新しい盆踊り歌の流行が生まれました。清三から何人かの人脈を経て明治の後半に,この盆踊り歌を現在の八木節の形にしたのが,堀込源太(本名 渡辺源太郎),矢場勝(新井勝一郎),喜楽家(久保秀三九)の3人です。3人は互いにとなり村どうしで大の盆踊り好きでありました。矢場勝の歌は節回しにおいて,源太の歌は音量において,喜楽家は踊りにおいて,というふうにそれぞれの長所を生かし,酒だるに笛,鉦,鼓,日傘を使うという,現在の八木節の形ができあがりました。大正時代の初めに矢場勝と源太は東京に進出し,この上州人気質のからっとした歯切れのよい明るくにぎやかな節回しが,東京の人々にも受け入れられ,レコード化することになりました。録音が終わり,レコード発売の時にこの曲の題名を創始者3人が活動の拠点としていた地名を取って「八木節」として売り出しました。 現在,「八木節」は太田,足利,桐生を中心に地域に深く根付き,大人はもちろん小・中学生にも愛好者を増やし,地元の夏祭りや盆踊りでは欠かせない存在として人々に愛されています。 【参考曲】 草津節 木崎音頭 赤城馬子唄 だんべえ踊り |
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